スケジュールの中に『昭和54年78歳』と書かれたものがあった。
自分で書き入れたのだが、このところ安定剤のせいか、それとも健忘症のせいかよく物忘れをする。
11月29日・・・何だっけ?78歳・・・
Σあっ!もしかして・・・婆ちゃんの命日?
(_ _。)そうだ・・・きっと・・・
お墓に行かなきゃ・・・
こんなに寒くなってからだったかなぁ・・・
婆ちゃんずっと寝たっきりでさ、両親も共働きで世話が困難になって病院へ入れていた。
今でも覚えている あの言葉
『お前は、わしを捨てるのか!!』
泣きながら病院へ入れた。
オカンと仕事の合間に病院へお見舞いに行く。小学生の私は、あの病院が恐かった。入院患者は、痴呆で今の様に紙パンツなどない。だから大人用のオムツカバーにさらしのオムツで何度も赤ちゃんの様にオムツ変えをする。悪臭と汚物の山。痴呆の進んだ人は、自分の身につけた物を脱ぎ捨てる。他にも自分の部屋を忘れ他人のベットで「コイツは盗っ人だ!」と騒ぐ。自分の便を掴んで投げる。体は不自由じゃないから歩き回る。そんな中にウチの婆ちゃんがいた。
もちろん寝たっきりで。でも、私の顔は忘れる事がなかったし話しもできた。
介護士さんの苦労てば、とても大変な事は知っている。物事を理解できない相手と毎日向き合って同じ事の繰り返しだし、婆ちゃん薬飲むのが嫌でベットの下に隠していたから、行く度に介護士さんから叱られた。
頭を下げるオカンを見ててかわいそうだった。幼くてもその姿は、とても嫌だった。
婆ちゃんオブラートがないと薬飲めないんだよ。家でもそうして飲んでたもん。
あと養命酒。必ず枕元にあった。
家にいる時、ちいとの小遣いくれた。10円や50円だったけど、往診の時のお釣りをくれた。
保育園や学校から帰ると、ずっと婆ちゃんのそばにいた。仕事でかまってもらえない親の変わりに寝たっきりの婆ちゃんの枕元にずっと。
あの頃、近所ってもんじゃないじいちゃん婆ちゃんの足では、結構の距離の人達が毎日遊びに来てた。
必ず誰かかあかあ遊びに来て嫁の愚痴言って帰っていった。みんな手押し車を押して、今のようなコンパクトなものじゃ無くて、籐で編んだベビーカーみたいなもので、えっちらおっちら急な舗装もしてないガタガタの坂道を上がって来てくれてた。
まだ大きな角の牛が畑を耕していたから、いつも隣の山に縛りつけてあって怖くて遊びにも行けなかった。懐かしいなぁ〜。
婆ちゃんが病院に行ってから外で遊ぶ事が多かった。危ない遊びも沢山した。火遊びしてボヤ出したり、戦時中戦車を隠してあった山でトラロープかけてターザンごっこしたり、それを利用して首吊りがあったり・・・
そんな事がきっかけでそろばんに通う事になってそれからだ。頻繁に夜中に電話がかかって来て両親が出て行く様になった。
今思えば 病院からの危篤の電話だったんだろう。朝早く帰って来た両親が慌ただしく朝食の支度をして『今日は、学校へ行っておいで』とだけ言ってバタバタあっちこっちに電話をしていた。
亡くなった事を告げては、くれなかった。
学校から帰ると婆ちゃんの部屋に白い着物着た婆ちゃんが白い布を顔にかぶせて寝ていた。いつもと頭の向きを変えて・・・
しばらくすると氷屋が来て厚いドライアイスを胸と腹に置いて行った。冷たそうで婆ちゃんかわいそうだった。
でも、いつもの様に隣でねっころがり婆ちゃんのそばにいた。胸に組まれた冷たい手をさすりながら注射や点滴でうつ場の無くなった腕や足も
沢山の人が集まり そこにいる事すら出来ず、自分の家なのに自分の家じゃない感覚で隅っこで、じっと様子を見てた。いつも遊びに来てた婆ちゃん達がウチの婆ちゃんを見て泣いている。
私は、なぜか泣けなかった。ココロの中がからっぽになって・・・コタツに潜って爆睡してた。それで怒られた覚えがある。
そんな日だったんだ。
婆ちゃんゴメンね、今でも婆ちゃんの形見の鶴亀バッチを持ってるよ。
78だったんだなぁ〜今の78ってまだ若々しいよね。あの頃は、みんな腰も曲がっていて年寄りって感じだったのに。
もうすぐオカンも婆ちゃんの歳になる。考えたく無いけど、いつかその日が来るんだね。
もっとしっかりしないと。
婆ちゃん、土曜日仕事終わったらお墓に行くから待っててね。
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